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囲碁の豆知識

疑問に思ったこと、解らないことなどを、適宜調べて載せています。


18 毎週日曜日NHKのEテレで放映の「囲碁ジャーナル」で、2021年12月1日に泉谷八段と大橋七段によって、”AI時代の新格言”が6個放映されました。どのような格言だったでしょうか。

 新格言として以下の6個が放映されていました。

 ①パット肩ツキ肩パット

 ②シマリにツケよ

 ③AIにソーシャルディスタンスなし

 ④三々でサンザン苦労する

 ⑤とりあえずビール 星に三々

 ⑥カカリに受けない

でした。最近のプロの対決を見ると、これらの格言はもっともだと思われます。

 

17 碁石の色はどうして白と黒か

 中国・後漢の囲碁の名手、班固(紀元32~92)の著書に、碁盤は天地を、碁石の黒と白は陰と陽を表す、と記載されているそうです。囲碁は古代中国で生まれ、陰陽思想の影響で、黒と白が使われているとの説が有力だそうです。また盤上に並べて区別しやすいことも理由とのことです。

 

16 囲碁と脳の認知機能との関係は

 画像は2018年6月26日の毎日新聞朝刊に載っていたもので、高次脳機能障害者や家族、支援者らによる囲碁の交流会の様子です。脳の認知機能維持、向上の効果もあるとのことです。東京都健康長寿医療センター研究所の飯塚あい研究員(老年医学)は「囲碁はルールがシンプルで始めやすい。やり方を正確に覚えられなくても会話をしながら打つだけで刺激になる。短時間で情報を理解して覚えて処理する『ワーキングメモリー』の維持、向上への効果が期待できる」と話していました。

 

15 囲碁の連勝記録は

 将棋では、昨年秋プロ入りした藤井聡太4段(14)は、2017年5月18日現在18連勝で、まだまだ記録を伸ばしています。囲碁ではデビュー時の連勝記録は、広江博之(ひろえひろゆき)九段(50)の12連勝です。ついで依田紀基(よだのりもと)九段(51)、溝上知親(みぞかみともちか)九段(39)、伊田篤史(いだあつし)八段(23)が11連勝、張栩(ちょうう)九段(37)は10連勝しています。デビュー時以外も含めると、故二十三世本因坊栄寿(ほんいんぼうえいじゅ)=坂田栄男(さかたえいお)九段=の29連勝が最高で、次いで本因坊文裕(ほんいんぼうもんゆう)(27)=井山裕太(いやまゆうた)九段=と林海峯(りんかいほう)名誉天元(めいよてんげん)(75)の24連勝です。20連勝以上の棋士は将棋の6人に対し、囲碁は7人です。5月11日の毎日新聞朝刊の、「質問なるほドリ」に出ていました。 

 

14 依田紀基九段の提唱する「筋場理論」とは 

 ”囲碁40年の歴史を変える究極の打ち方”として本にもなっている「筋場理論」とは、盤上で筋よく打つための「手筋」についての法則を、体系化したものです。「筋」とは、「石が働いている形」のことで、今までこれを明確に定義づけした人はいないとのことです。「筋場」とは「石の働きが悪い場所」のことで、「石が2つ以上並んでいて、打てばアキ三角ができる場所」と定義されていました。右の盤上のA,B,C,Dを言います。これを作らないようにうち理論です。依田九段の「筋場講座」から

 

13  囲碁名人戦の開催地は公募されている

 3連覇を果たした井山名人と挑戦者による第41期囲碁名人戦が平成28年9月から11月にかけて行われますが、確実に行われる第1期から第4期までの会場の公募が平成27年10月31日の朝日新聞朝刊に載っていました。締め切りは2月29日ですが、調べると今までも行っていること、要件が厳しく、限られた旅館などしか応募できないことが解りました。なお棋聖戦も平成29年1月から始まる第41期から公募が行われ、平成28年11月17日の読売新聞に決まった会場が載っていました。

 

12  アマチュア囲碁名人戦とアマチュア本因坊戦の違い

 共にアマチュア棋士日本一を決める大会です。アマチュア本因坊戦は、毎日新聞と日本棋院主催、関西棋院後援で、1955年から行われており、アマチュア囲碁名人戦は朝日新聞と日本棋院主催で、2006年から行われています。2015年の大会の優勝者は本因坊戦が芝野龍之介さん17歳で、名人戦は大表拓都さん19歳でした。なお2013、2014年は、両方とも2015年7月にプロになった洪奭義(ホンソッギ)氏が獲得していました。

 

11 囲碁で無勝負とは

    ①三劫以上、②劫立てを打たずに劫を取る(特別の場合のみ)③長生(ちょうせい)の3つ場合があるとのことです。

 ①の三劫以上ある場合、互いが順に取り合えば永久に続きますが、半目を争う場合を除き通常はお互いに接いで解消します。2015年4月9日に日本棋院で準々決勝の河野臨九段―三谷哲也七段戦が行われ、4コウ無勝負が発生しました。②も実際にあった話で、1980年、黒の趙治勲と白の大竹英雄で、趙治勲がコウ立てを打たず、直ちにコウを取ったことで生じました。取り番か否か記録係に確認してからの2度打ちだったことから、裁定の結果、無勝負となりました。当時新聞にも出ていた記憶があります。③の長生の代表例は、図のようにaに黒が来ると中手5目で白が死ぬので、白はaに打ち4目あてにしますが、黒は2目を取り返し、白の8目のあたりにします。白も2目を取り返し、1-1から白が白4目のあたりにできるので、黒が打って図の形の戻ります。この状態を長生といいますが、2009年に打たれた囲碁の世界選手権・富士通杯予選B・王銘エン(王へんに宛)九段―内田修平三段戦が長生による無勝負となりました。なお長生とは、死活がらみで同型反復になる特殊な形をいい、中国にある長生殿での対局中にこの形が出現したことからこの名前がついたとのことです。 (日本棋院のホームページから)

 

10  船橋市で、「小学生囲碁教室」開催 講師は「NPO法人囲碁文化継承の会」理事長

 広報「ふなばし」の平成27年7月1日号に載っていたのですが、7月28日(火)から31日(金)の午前10時から正午までの全4回「青少年会館」で先着30名人に囲碁を教えるとの事です。講師は「NPO法人囲碁文化継承の会理事長」の山下功氏です。会の事務所は船橋市前原東5丁目3番20号にあり、目的は、”千葉県在住の子ども及び高齢者等に対して、囲碁の普及に関する事業を行い、幼年者及び青少年の健全な成長並びに高齢者の健康の増進を図り、もってすべての人々が健やかに暮らせる地域社会づくりと福祉の増進に寄与する”としています。なお法典囲碁クラブにも、山下さんから碁の指導を受けられた方がいました。

 

9 碁石の大きさと個数

 碁石の大きさが白黒で違うことを知りました。白石が直径21.9mm(7分2厘)、黒石が直径22.2mm(7分3厘)です。黒石のほうが若干大きいのは、白が膨張色でやや大きく見えるためです。また厚さは6mm - 14mm程度までです。正式の碁石の数は、黒181個、白180個です。碁盤は19×19=361となり、すべての点が埋まる計算ですが、劫等で碁石が少なくなった場合には、お互いに挙げ石の交換をします。

  

8   日本棋院と関西棋院との関係は

 日本棋院は1924(大正13)年に設立され、現在公益財団法人として約300名(雑誌「碁ワールド」で数えると329人)の棋士が所属しています。東京本院のほか、関西総本部、中部総本部があります。関西棋院は、1949(昭和24)年当時本因坊であった橋本宇太郎氏が独立して、関西棋院を設立、現在一般財団法人として117名の棋士が所属しています。それぞれ独自の棋戦もあるが、七大タイトル戦は両棋院の棋士が出場して覇を競っています。なお井山裕太は日本棋院関西総本部、2014年12月王座になった村川大介及び2014年十段を明け渡した結城聡はともに関西棋院所属です。 

 

7 碁盤は長方形ですが、なぜ、どのくらい長方形なのか、またこれはいつごろからなのか

 囲碁が日本に入ってきたころは、正方形だったとのことですが、対局する際には、少し相手と距離を置いた方が心理的に落ち着きやすいから変更されたとのことです。長方形になったのは、江戸時代、第三世本因坊算悦らが、一寸(約3.3cm)縦長にしたのが始まりで、この規格は今でも続いています。

 

6 プロとアマの同じ段での実力の違いは

 日本棋院のホームページによると、”プロは初段から九段までありますが、これはアマチュアの段とはくらべものにならないほど強い段です。”と書かれていました。なおアマは25級から八段まであるそうです。その差が知りたいのですが解りませんでした。

 なお囲碁殺人事件(竹本健治著1980年)に、”アマ五段がプロの四、五級くらい、アマ六段がプロ初段、アマ七段がプロの五段くらいかな。つまり、プロの段級の方が、アマのに比べて間隔がずっと密になっているんだ。”との文章がありました。

 

5 岡目八目の語源

 碁をわきから見ていると、実際に打っている人よりも、八目も先まで見えることが語源ですが、「岡」は「傍」とも書き、八目は多いというニュアンスを含んでいます。

 

4 日本ルールと中国ルールの違い

 大きな違いは、勝敗が、日本は地+地内の相手の石数となっているのに対し、中国は地+残存石数となっていることです。そのため、ダメも打てば残存石数の中に入り、最後は黒が打つこととなるので、コミは日本が6.5に対して7.5となっています。

 

3 隅の曲がり四目はなぜ死か

 単なる曲がり四目は生きですが、隅の曲がり四目は、いつでも劫に持ち込むことができるので、劫材がなくなってから仕掛ければ取れることとなり、仕掛けられる方が有利として死となります。ただその前に曲がり四目を囲んでいる石を取るために劫を仕掛けることは可能となっています。

 

2 本因坊の由来

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えたとされる日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家計で、「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺(京都市左京区、法華宗)の塔頭に由来しています。代々世襲でしたが、昭和13年21世本因坊秀哉が引退した際、その名跡を日本棋院に譲渡して、家元制から実力性に移行しました。

 

1 いつからコミ出しが始まったのか、6目半になったのはいつか。

 昭和14年(1939年)の本因坊戦で初めて4目半のコミが始まり、昭和49年(1974年)コミが5目半に改められ、平成14年(2002年)に今の6目半となっています。